今日はここのところでご褒美のような幸せな日だった。
好きなディレクター3人が朝から順繰りにつく番組で、好きなひとたちに囲まれて1日を過ごせたこと。
こんな極上の日もある。打ちのめされる日もある。
だからこそ、どんな日も舞い上がらない。
じっと味わい尽くして、すっくと中心に戻るのみ。
音を紐解いてゆくのは、肉体がある身で最もエネルギーに近い五感をフル稼働させるために、至極楽しい作業だ。
香りや料理をずっとやる中で、その中心にあるものを拾うことはいつだって楽しかったけれど、それはどこまでいっても自分自身の肉体とは別の存在だった。
しかし「声」だけは違う。身体にも属しているとは言い難いが、自分の手を通して作り上げた作品、絵や香りや料理ともまったく異質である。
それは自分自身を作品としてエネルギーを動かす作業であり、なによりも素晴らしいことは、自分でその作品を管理しなくていいところにある。
つまり、声をラジオに乗せることができれば、そのあとは局がただ保管してくれたり、他の人の耳に残ったならば、他の人の記憶に保管してもらえる。
そう、自分がやりたかったことはそういうことだ。
自分の手から離れた瞬間に、誰かのものになってゆく工程。
そういうことをいつも局から帰る間、延々と体感として感じながら幸せの余韻を噛み締める。
そうではないことも稀にはあるが、基本的には「いい音」で埋め尽くされている場所である。
テレビではそうはいかない。
耳がいい人たちが多いし、そんな中でこれから声のトレーニングを受けてゆく。
昨日は初日で、徹底的に打ちのめされて家に帰ったけれど、それでもこれまでの長い間、自分を日本語の世界に晒す勇気がなかった自分にとって挑戦することすらできなかった辛い時間に比べれば、これ以上ない幸せな疲れであった。
声を出すことは、他のどんなことよりも自分にとっては身体を使う。
ヨガもいいけれど、ヨガは自分と宇宙で完結してしまう活動である。
そして、声は、自分と宇宙で完結する静けさや慣れ親しんだ楽さは無い。
それは人に届けるための活動であり、コミュニケーションの中心であり、必要な情報を伝えるための動作であり、この三次元の相手が存在する。
ひとりでいるときに、人は声を出さない。
出す必要がないからであり、この地球の動物でさえ、羽音や鳴き声を介して行おうとしているのは情報交換やコミュニケーションである。
わたしたちはそして、声を使い、言葉を使い、誰かに大切なことを届けるのだ。
こうして何も言わずにものを書くことは、この人生で自分にとって最も楽なことのうちのひとつだった。
そして、喉を震わせて声を出すことは、自分にとって最も辛く厳しく怖いことの、ひとつだった。
旅は第6章へと進んだ。
自分の足で、自分の意思で、そしてわたしは進んだんだ。
嬉しい。
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