Hakoniwa b. ガーデニング

クロッカスの芽

01/19/2022

ひさしぶりに、帽子をかぶりながら外にでて

庭の片付けができた日だった。

寒い日も雪も何度か挟んで、枯れてしまったものもある。

 

お水をきちんとあげられてなかったものもあったのかもと思って

数年冬越しをしてきた赤いパラソルの花のツルが、カチカチにひからびて茶色くなっていたのが、悲しかった。

 

短く切って、また春になったら生えるのか、それとももう死んでしまったのか、命はぱっと見ではわからないことがたくさんあるから

短く全てを切って、いまはそこに、まず並べておいた。

 

辛かった数週間を経て、もういちど太陽のある方角に気付けるようになってきた数日

どうしても解せないことがこの日本には山ほどあり、

日本語のコミュニケーションのことを理解しようと頑張りすぎて

もう疲れ果ててしまった最後

 

アレも、コレも

手放して

もうどう思われてもいいやと

誤解されてもいいやと

アレも

コレも

満月だと、手放して

 

 

そうしてみえてくることたちもあった。

 

もともと、自分に日本語の文脈を噛み解く能力が備わっていないことや、それは訓練しても難しい部分と

理解すれば不安にならなくて済む部分

いろいろ。

 

 

なにせ、わたしは美しいものが好きだし、

それでいて、肥溜めにこの身を投じていつも最後まで

たからものを探し続けるし、やれることはやり尽くし、それでダメなら、しかたないと。

 

昔もどっかに書いたかもしれないが、

誰かと付き合わなかったり

下品な場所に立ち入らなかったり

仲良くできなかったりするのは

決して、

なにかを馬鹿にしたり、見下したりしているわけではない。

 

いろいろなことが気になり繊細に気づいてしまうのは、いたしかたないことで

自分なりに世界との距離を一生懸命測りながら、生きている。

 

わたしは、醜いものが嫌いなのではない。

それに甘えたり、楽したり、卑屈になって
与えられたものを大切に扱っていないことが

いやなのだ。

 

ゆっくりでも、不器用にでも、

なにかを大切に扱うことは、できる。

 

わたしは美女と野獣のお話が好きだし、人は外見ではないとそう思うけど

でもそれは、こころをきれいにしようとするこころ、

が結局は、外見を作るから

外見はかんけいない

でも内側が全部、外に出る

 

 

茶色く庭木の葉が落ちている寂しげなハコニワの
侘しいコーナーには、春をまつ球根が植えられていた。

土壌も痩せていて、芽がでるかもわからなかったけどトライした10月から3か月が経ち

いつも庭に一緒にいてくれた人は、居なくなった

 

それでも小さな芽は、力強く空へと向かっていて

 

「ああ、なんだ、やっぱり季節はいつもと同じように巡っていて

わたしの命も、人生も

捨てる神あれば拾う神もきっとあり

今は寂しいけれど

きっと

クロッカスの黄色く愛らしい花が咲く日が来る。」

 

とそう思えた。

 

 

やりきれるだけがんばったなら、

それでも無理なら、

やめていい。

潔くわたしも、今握りしめてるいろいろを

捨てようと思う。

 

前へつづく道は、光に満ちている。

 

 

 

 

 

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