たお氏に学ぶ、質問のしかた
ママは、だいふきが苦手だ。小さな頃から実家にもだいふきがあって、濡れて絞ったもので毎回必ず机をふくというもの。
子供の頃、毎回食事の前に机の上をだいふきで拭かされた記憶。 何気なくそのままの机の上で何かを食べることを、母は忌み嫌った。汚い机で食べてとそう言った。わたしにとっては、別に机の上に靴で登ったりするわけじゃないし、そのままボロボロこぼしながらおやつを食べても全然平気だった。
猫がいたのもあると思うが、机の上は汚いもの。魔法の濡れた布で拭いたら食事用になるもの。
そんな位置づけの食事用のテーブルとだいふきだった。
海外に行って、その文化から解放されたわたしは楽にになった。 他のどこかの国にはだいふき文化があるのかもしれないが、少なくともヨーロッパやアメリカには、食器を拭く乾いたディッシュクロスがあるだけで、濡れて絞るタイプのだいふきというのは存在していなかった。
海外から戻ってずっとあとになってから、机を拭かない娘が繰り返し解せない母に、 「アメリカには台拭きはないんだよ」 と言うと、目玉が飛び出るくらいに仰天した声を出した母だった。「じゃあどうやってご飯を食べるの!?」 まるでトイレの床に直にご飯を載せるような言いぶりの母に、わたしは淡々と答えた。
「マットを敷くんだよ。洗ってある綺麗なマット。それか、大抵机にはテーブルクロスがかかってるから、汚れたら布を洗濯する」
母は、トイレの床で食べるわけではなさそうな娘の言いぶりに、すこし胸を撫でおろした様子で 「そんなのもあるんだねぇ。」とそう言った。
ある人から見れば、わざわざ汚れたら布ごと洗濯したり、マットを敷くほうが手間のように思えるかもしれないが、わたしにとっては違った。
食事以外でも、いろんな用途で使うことがあるテーブルの上に、マットを敷くリチュアルが、「それは、食事の時間である」と教えてくれる、明白な状態に区切ってくれることに意味がある。
目に見える汚れがない限り、さっとマットを敷いてその上に皿を並べる。
わたしは小さいころから大人になってもよく、ボロボロこぼしながら食べて怒られていたので、テーブルに何かを落とさないように器用に食べるのが苦手だった。
でもマットがあると、よく食堂で見かけるような、食器ののったおぼんのような役割も果たし、どこに落としてもおぼんの上だから安心、に似たような感じになる。
大きな受け皿の上で食べられる安心感だと思う。
わたしにとって、日本の文化で馴染めないことは子供の頃から山ほどあった。 生まれ育ったからあたりまえで自然、ということはひとつもなく、そして海外で暮らすようになって始めて、こんなにシンプルで簡単な方法でみんな生きてる、とスッとそっちが馴染むことが山ほどあった。
言葉もそうだし、だいふきのような小さな習慣もそのうちのひとつだ。
日本の台所で生活している手前、わたしの台所にも常に台拭きがひとつ置いてある。
でもそれは少しお客さんのような存在というか、ある意味母の習慣を形式的に受け継いでいるような、他の日本人が出入りしたときに、毎回「台拭きはどこ!?」と訊かれるのが面倒なために用意しているところがある。
たしかいっとき台拭きのない生活をしていた頃、人々は怪訝な顔をして、不潔なやつだといわんばかりに台拭きを求めた。
わたしは、静かにウェットティッシュを差し出してそれで拭いたり、アメリカのしっかりしたキッチンペーパーに除菌アルコールを吹きかけて、淡々テーブルを拭いた。
なんというか、どちらが偉いだとか、どちらが几帳面だとか、そういうのは実際存在しないけれど、多くの人は、見たことのない動作に毎回小さな驚嘆を示した。彼らのその驚嘆にはいつも、「無意識に見下してた自分」を恥じる気持ちが混じっていたと思う。
台拭きがないことは、汚いテーブルで食事をすることだと、思っている母のような日本人の人は多いかもしれない。 身近にあってあたりまえのものは、その役割が果たして本来何の目的なのかを問う余地もなく、「あって当たり前なもの」として盲目的になることがとても多い。
でも、清潔な場所で食事をする、ということが本質で目的なのであれば、それは台拭きである必要はない。 床で食べる文化もあれば、手で食べる文化もあり、世界にはいろんなやり方があるだけのことだ。
まいちんは、小さいころから掃除が苦手だった。 きれいになっているのか、なっていないのかがよくわからない曖昧な動作がとても苦手で、台を拭くという行為も、布が毎回洗って乾かしてある状態からならいいが、濡れたまま、のぺっと台所の隅にいつも放置されている布が清潔であるとは限らない。 臭いに敏感なこともある手前、そもそも台拭きで拭いたほうが汚れるんじゃないのかという気にすらなる。
濡れた布の感触は、とてもきもちがわるい。 雨の中で、洋服やパンツがびしょびしょになって肌にまとわりつくのは、大好きな恋人と抱き合うとか、真夏の運動後に一瞬水浴びをするくらいの特別なシチュエーション以外は、誰にとっても気持ち悪いものだろう。
わたしは水の重たい感触が大好きだ。人魚が海に戻るときの安心感はきっとこんなふうだろうと思うくらい、その圧や流れはわたしを安心させる。
でも、ぬるっと濡れた台拭きは嫌いだ。
最後まできちんとテーブルを片付ける、の最後は、「台拭きでテーブルを拭いて、それを洗って絞る」というのを息子に教えながら、その行為が大嫌いだから、毎回教えるのにも苦労している自分がいた。
「まま、だいふきでつくえ拭くの、好きじゃない。だからウェットティッシュでやっちゃう」と言うと、 台拭きでテーブルを拭きながらタオ氏が訊いた。
「台拭きの、どこが嫌?」
すばらしい質問だなと思って、朝から褒め倒した。
誰かが何かを嫌がっていたり、苦手だと思っているときに ひとはよく、怒ったり、無理やりやらせたり、見下したり、不満を漏らす。
または優しい日本人はとてもよく、「何もやらなくていいよ」と除外する。 それは最も簡単な方法でもある。
やりたいことをやれるように助けてもらう代わりに、わたしはずっと昔から周囲に、
「無理していかなくていいよ」「無理してやらなくていいよ」と言われてきた。
行きたかった大事な息子の入学式に、髪もお化粧もセットして最後、「無理していかなくていいよ」と助けてもらえなかった時は本当に死のうと思った。
日々いろんなシチュエーションで人々が本質からずれたところで、ルールにしがみついてるのを見ながら、毎回しんどくなることが多い中で
「嫌な理由」を訊いてくれる人がいたこと
その上で、どうすれば、きらいな台拭きから解放されることができるかと、根本を考えられること
本質をきちんと理解して、対処しようと考えることの大切さをわかっていないと その質問は決して、出てこなくて、たかが台拭き、されど台拭きだなあと思った朝だった。
蓋を空けてみれば全てのカラクリは、なんてことはないことばかりだ。
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