りゅうじが、一方的に与えるだけでわたしのできることが見えないことが、とてつもなく悲しかった昨日。
どれだけ話しても、与えると受け取るは同時に起こっていることは伝わらなかった。
自分にもできることが山ほどあることに、気づいてもらえないことはこの世界で最もひとから力を奪ってゆく悲しいことのひとつだとそう思う。
わたしは助けが必要だが、助けてもらう必要があるのは、自分が人の役に立てる、自分も誰かを助けることができるように、助けが必要だ。
ゆうさんだけが今そのことに気づいていてくれて、その明かりが消える時のたまらない心許なさと、生きている心地のしない感覚。
タオ君が、ママ絶対出産記録はやってねと仕事を与えてくれるおかげで、本当に少しづつ執筆を進められた。
タオ君もまた、「ママは何もできないと思ってしまう」と時々つぶやく。
自分がしてきた経験や立派な経歴や仕事ができることも、今も何もやれることは変わっていないのに、【障害】という枠の中に入れられた途端に、人々の誤解がたくさんの縛りを産んでゆく。
自分にできることは、「そうじゃないこと」を知っていることを、ただじっと持ち続けることと、同じように無能だと誤解されたり、1人でできるだろうと誤解されてサポートをもらえない、わたしのような特性のみんなが、いつか周囲の人に気づいてもらえることを祈るだけだ。
しげこさんがメールをくれて嬉しかった。
まだこれからもきっと絶望することもあるかもしれないけれど、とにかくその中で光を探していく。
ゆうさんや、あーちゃんが見てくれる、「別にまいちゃんは普通にできる」という軽い当たり前の感覚と、それでもサポートが不可欠であることが、たった1人でもいいから、理解してもらえること。
本当、恋愛とかまじでどうでもいいんだよ。
そんなのはおまけに過ぎない。
でも誰もがそれを大袈裟に捉え、わたしが何かを求めていると誤解し、必要な助けまでまるごと切り捨て、突き放す。
昨日のりゅうじの電話のあとひたすらに泣き、癒し、
朝改めて、わたしは本当に何も別に望んでいないのに、たまらなく悲しかった。
彼の過去のパートナーシップへの恐れや怒りや拒絶はすべて、わたしに向けられる。
そしてその全ては、りゅうじの持っている真の愛や深い優しさ、必要な助けを打ち切りにしてしまう。
必要なのは生きるための最低限の支援であり、言語の認知や能力的にわたしはこの日本では、圧倒的に弱者で人々に依存せざるを得ないが、精神的には自立している。
ゆうさんがいてくれて本当に良かったと感じる。
ジャッジと偏見のない愛。
「正しい支援」の話をできて、恋愛でつまづいてきている彼らのことをちゃんと理解してもらえて本当にありがたかった。
これからだ。
本当にこれからなんだ。
果てしない。
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