愛のきろく

山梨とか色々

08/08/2024

おっきな、おっきな1日。

山梨へ行く見通しがずっと立たない心もとない中で、足元がおぼつかないまま必死で行き先を探しながら、ぎりぎり日々をこなすような中で、ひとつまたひとつと大きな荷物が片付いてく。

タオ君のベッドの引き取り手が決まり、捨てなくても良くなったベッドは、遠くから優しそうな外国人のひとがとりに来てくれた。

ことばの通じない国で、生活する大変さのことや、家具や住む部屋や仕事を、掲示板で探し、外国語でやりとりしながら生きることは、これまで嫌というほどいろんな場所で、経験してきた。

日本で、簡単に部屋を借りて、簡単に買い物して、簡単に仕事を探せて、なんなら働かなくても十分生きてゆけることが、どれほど豊かなことで、そのあたりまえが無い日々に、どれほどの助けが必要であることか、ほとんどの日本人は気づいていなくて、タオ君もまたそのうちのひとりだった。

あっというまにタオ君のデスクの貰い手も決まって、なぜかタオ君の周辺だけ空っぽになっていくのと反比例するように、彼の中で9月から山梨の学校に通うという意思は日を追うごとに確定したようになっていて、潤と一度も会えてなくて、一度も話せていないのに、不思議とそれが決まっているかのごとく動いてゆくのだった。

 

わたしは、ピンカさんからのリーディングで、山梨へ行くのは自分で決めて現実にするということが大事なことだと書いてあって、潤が何を言おうとそれは、わたしが自分で行きたいと思ったら行っていいのだと書いてあった。

何度も一字一句を読みながら、長年の苦しみや、長年の苦労や、長年の疲れが、これでようやく解放されるのだということが、よくわかって、安心で涙が出てきた。

毎日毎日不安と緊張の中で、真っ暗な道をたったひとりで歩きながら、タオ君が支えてくれて、こっちだよ、こっちだよと教えてくれる。

 

わたしは山梨に行きたいんじゃない。

ずっと、潤がいる場所にただ行きたかった。

それが京都でも東京でもアフリカでも、どこだっていいんだ。

それが、自分の居場所だと出会った瞬間からそう思ったから。

 

 

でも、だからこそ、わたしはずっと潤の元には行けなかった。

潤がいなくとも、自分の幸せを見出せるまでに何年も何年もかけて、ようやく必要がなくなった今、わたしは自由に自分の行きたい場所に行けるのだと。

 

昨日朝起きて、山梨に行けなかったらわたしは日本を出て、2度とこの国には戻らないとそう思った。日本人の国籍はわたしには到底合っていなくて、それがあることで、日本語がわかることで、日本人の外見をしていることで、たくさんの辛い目に遭ってきて、それはこの先もきっと変わらない。

でも海外ではわたしは、いじめられることも憧れられることも嫉妬されることも軽蔑されることもなくて、ただ一人の人として大切にされるから。

帰化することのしやすい国を調べて、カナダやアメリカで、十分国籍が取れるだろうとそう感じた。ニュージーランドでもいいけれど、大事な家族がそばにいる場所に、わたしは居たい。

 

自分にとってそれは日本では潤だけで、アメリカにはバーモントの家族がいる。

だから、山梨に行くし、それがもし無いのであれば、日本にいる理由はもう存在していないとそう感じた。

 

 

タオ君は、ママが死ぬくらいなら、外国に行ってほしいと最後懇願したあの日、わたしはそうか、生きてもいいんだな、日本から出れば、わたしは生きられるとそう思って、「もう2度と帰ってこないんだよ?」というと、今回はとても朗らかに、タオ君は「僕が会いにいくからいいよ」とそう言った。

そう、わたしたちは、どこにいてもきっと、もう平気だ。

別々になっても、たとえもしわたしがアメリカ人になっても、親子であることに変わりはないことや、その愛に変わりがないことを、タオ君はようやく理解してくれた。

 

わたしは山梨にも興味はないし、潤の家にも興味がない。

でも、ただ家族として生きてゆきたい大切なひとの側で生きることが、わたしの本当の望みで、それだけでいい。

ほんとうに、それだけなんだと。

 

そして、その場所でわたしは、自分の経験してきたことや、興味のあることを

ただ楽しんでゆきたいとそう思う。

 

ようやく長い旅に区切りがつきそうで、前祝いのような夜。

 

そして、一度も会わずに一度も喋らずに、ずっとそう思い合える相手がこの世界にいることが、奇跡のようだとそう思う。

 

 

 

 

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