自分の中に、わたしは価値がないとか、人に迷惑をかけるだけの存在だとか、そういうのは本当あんまりなくて、助けが普通のひとよりも必要だったとしても、ただ等しく生きる価値があるとそう思っていた。
ゆうさんがズタズタになったわたしの身体をずっとハグしながら受け止めて、その中で自分がいかに長年苦しんでいたかがよくわかったし、なぜずっと死ねばいいと感じていたのかも、よくわかった。
結局それは、周囲の人からのネガティブなエネルギーだった。
日本人の恐ろしいところは、自分の中にあるネガティブな感情を、見事にきれいさっぱり優しさや愛に似たもので覆い隠し、自分で何を感じているのか全くわからなくなるところにある。
海外ではネガティブなことは悪いことではなく、状況をよりよくするためにコミュニケーションを取るだけのニュートラルなものなので、隠す必要がない。
これからは、死ねばいいと誰かに思われても構わないと少しだけそう思えた。
助けが必要な人にフラットに助けを出すことができるひとは、少ないけどいるよとゆうさんは言った。本当にそうだと思う。
そしてわたしのこれからやることは、相手の「助けたい」を、間に受けて混乱するのではなく、自分が安心していられる状況をちゃんと守る許可を自分に出すことだ。
優しい建前の言葉をかぶった苦しいエネルギーこそが日本の最も闇であり課題だ。
わたしは、ゆうさんのようにただ本当に生きるために必要な支援を差し出そうとしてくれる人の声に、いまのところは耳を傾けたいとそう思う。
そして、そんな過酷な日本という環境のなかで、今まで自分の命をよくここまで守ってきたね、とありがとうの気持ちも湧いた。
今は自分に対する感謝を大事にして、長年かけてズタボロに傷ついた自分の心や身体をただ癒してあげたい。
そしてこれからも、生きる道にたどりつくまで歩いてゆく。
自分ひとりだけが、潤の側に行くと思っていても、必要な助けが得られずに何年も苦しんだこと。
ゆうさんの「山梨に行くんだよ、まいさん。」という言葉は、多分、わたしが潤のそばにいく理由を理解して肯定してもらった、はじめてのことだ。
潤と出会った時に、「この人の元へ行く」と思ってから、誰にも理解されなかった何年もの間、何度死のうとしてきたか、わからないけど、ただ1人のひとが、ようやく今回、気づいてくれたこと。
潤すらまだ気づいていないそれは、凄いことだと思った。
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