2023 SEASON3

もう一度人を信じられるようになったこと

11/22/2023

今日はにちようびからのフラッシュバックで、

最も苦しかった時に、家族や大事なひとたち全員から無視されて見放されて助けてもらえなかったときの辛い記憶が再来した、苦しい時間だった。

誰かを許せない気持ちの苦しさ、愛しているひとたちに見捨てられる苦しさ、裏切られる苦しさ、すべてを忘れようとしても、同じ状況に見舞われると、どうしていいか本当にわからなくなった。

 

タオくんにはタオくんの生活や時間があり、すべての時に助けてもらえるわけじゃない。

それでも、誰も頼れるひとがいない日曜日に倒れて、誰にも連絡がつかなかったときの恐怖はこの先どれだけ癒しを続けたところで、辛いものなんだろう。

 

数日おかしくなってしまって、タオくんともまたコミュニケーションが取れなくなってしまい、混乱が続いて具合が悪くなっていった。

 

こつこつ治療を重ねても、PTSDのフラッシュバックは簡単には消えてはくれない。

いつもの慣れた看護師さんじゃない看護師さんだったことで、余計に不安は募り、朝ことばにできぬまま電話でいつもの看護師の長に相談をすると、今日来る看護師さんに対する信頼や、きちんと対応できる人だから。とはっきりと断言している中で、(ああ、多分今日のひとは大丈夫な人だ)とそう感じられる瞬間だった。

 

もっとも信頼するタオくんへの信頼が揺らいで、支えになるものを見失ったわたしにとって、世界は誰のことも信じることはできない。

たとえ信じたとしても、彼らはあくまでも他人であり、毎日のわたしに寄り添うわけではなく、限界がある。

結局は、タオくんとの関係ありきで成り立っている自分の安心は、そこに依存するしかなくて、大人でいうところの自立からすると、たくさんの人は否定したがるが、わたしはどちらにせよ発達障害である部分に関しては、子どもと同じように、健康的に依存する場所がどうしても必要になる。

それが無い時の怖さは、自立すればできるとかそういうものではない。

 

無力感や、絶望を感じ尽くした数日だった。

そんな中で来てくれた看護師さんは、淡々と仕事として助けるよりも、もっと人間的に寄り添ってくれる人だった。

わたしが苦しむ側で、線を引くぎりぎりの場所で、共感し辛さをわかろうとしてくれる優しさは、ズタボロだったわたしに、間違いなく愛をくれた。

 

タオくんが学校に行かずにわたしを助けようとしていたことで、これまで人にどう思われるかや、学校に否定されたり、タオくん第一だと誰もが口を揃えて偏見をぶつけてくる中で

今来てくれている看護師さんたちは皆、わたしとタオくんを平等にひとりのひととして扱ってくれる。

タオが子どもだから優先ではない。

わたしが困っていれば、タオくんが学校に行けなくとも、まず私を助ける選択をしてよい。

 

これまでそのときにたった一人で孤独と戦い、タオくん本人ですら揺らいでいた中で、自分を信じて貫いてきた。

たとえ虐待だとほのめかされても、タオくんに頼っちゃいけないよと否定されても。

 

何ができて、何ができないかは、わたしたち2人が一番よく知っている。

 

そして、今日の看護師さんは、学校側からの不信感に満ちた迎えに対し、わたしやタオくんの意見を尊重してくれた。

ルールやナンセンスな規則を学校は押し付けてくるが、タオくんははっきりと自分の意思を貫いていた。うざそうな顔をしていて、初めて、ものごとの本質や、優先すべきことや、大切なことがわかっている様子だった。

 

本当に成長したなとそう思った。

 

以前だったら、何もわかっていない周囲の人たちによって、タオくんは無理やり学校に送っていかされ、わたしは何時間も倒れたままで、誰にも助けてもらえずだったのが、

今日、看護師さんがわたしたちのために、学校に白い嘘をついてくれた。

 

それは、愛と正しい判断を含んだ嘘であり、ようやく朝、不安で電話したときに「信頼していい看護師さんだからね」とはっきりと伝えてくれた言葉と、線で繋がった。

 

台所の奥で、薬を飲みたくなくて縮こまっているわたしに、時間が押しても駆け寄ってきて声をかけてくれた。

「みんな、2人を守りたいとちゃんと思っているからね」

そういってハグをしてくれて、

その「守りたい」には、嘘がなく、わたしは、このひとたちを信じていいのだとそう思った。

 

 

愛するひとに、もっとも大切な家族に、理解されずに、最も助けを必要としている瞬間に

見放されることは

この世界でもっとも辛い経験のひとつであると思う。

 

それは、「もうこの先誰のことも信じることはできない。

信じられるのは自分だけだ」と、最後の場所に押し込まれるのに十分な辛い経験だ。

 

受け入れるとか、許すとか、手放すとか、すべてをやってきた今。

 

 

そして、ゆるやかにもう一度、他人でもいいし、仕事として事務的にきてくれるだけだとしても、やっぱり信頼できて尊敬できる看護ステーションにお世話になれることは、ものすごいラッキーなことなんだとそう思える。

ありがたくて、理解のない世界のなかで、ほんの1人か2人でいい、こんなふうに、正しいことを見ているひとたちが側にいてくれたら。

 

それだけで生きて行ける。

 

ありがとう。

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