過去愛した誰かが、愛している人じゃなくなることは、無い。
3年前の夏に、この部屋でりゅうじと過ごしていた時間は、ただ愛に満ちていた。
でも、ただ発達の特性への理解のところだけが、お互いのハードルで
わたしたちはそれを、乗り越えることができなかった。
ただ好きなひとの側に居られるということは、当たり前ではない。
目に見えない障害のことに気づいて初めて、それは成り立ってゆく。
何度も繰り返しトライしたその旅に、愛が無かったことなど一度もなかったのに、それは無きものにされて、とても悲しいなとそう思った。
誰かを愛したり、一緒に暮らしたり、側にいることが難しいのは、愛せないからじゃない。
ただそれ以外の難しい部分に工夫をすることなんて、いくらでもできるのに。
難しいと言う前に、できることが100パーセントなのに。
そしてきっと自分はそう思っているから、誰かを愛するときに一度も疑ったりしない。
でもみんなは違う。
何かがうまくいかないと、愛が足りないのではとか、難しいのではとか、そう誤解するから。
ただの特性や、ただ知っているかどうかや、無知が人を傷つけあうこと
過去世界中で戦争が絶えなかった時代から、奴隷が当たり前だった時代から、
そうじゃなく人の権利は平等なのだと変わったのはきっと、ごく最近のことだ。
その中には、この先の数十年で、わたしやりゅうじや潤君やタオ君のような人たちが、ただ純粋な支援を受けられて、普通にみんなと同じように一緒に過ごすことができるようになる時代が、含まれていると思う。
わたしたちの歩んでる旅路は、過酷で果てしないかもしれないけれど、間違いなく時代を切り開いていくようなチャレンジなんだ。
りゅうじがいた頃の記録を、りゅうじが消えたあと、一度すべて削除した2022年のこと。
りゅうじはどれくらいの愛の中に居るのかや、その行き交う大切な気持ちのことを、全て無かったかのようにいつも振る舞う。
それでうまく機能することがあり、それで機能が止まることがある。
生命と愛の関わりのことを、いつも思う。
なおちゃんに会いたいな。
なおちゃんはいつも、ただ目の前のことを大切にできる人だった。
この部屋を出ていくときに、この先ちゃんと潤と一緒にいられるようになったときに、笑顔で報告にいくのをずっと待っている。
花が枯れていくのをじっと眺める夏。
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