(2021年10月5日の記録) 再投稿
数年前、保育園の近所の家の前の庭がきれいで、送り迎えの時によく立ち止まって見ていたら、おばさんがお花を数回くれたことがある。
オキザリスというお花は、見たことなくて可愛くて、「これかわいいねえ」と思わず声をかけたら、そのまま苗をくれた、冬の晴れた穏やかな日々のことだった。
それから愛らしい小さなパラソルが咲いたり閉じたりする姿を楽しんで、次の年もまた花をつけた。
おばさんが、放っておいても勝手に咲いて増えると言っていたので、結構手入れも適当にやってたら、本当に植えっぱなしでも次の年に花を咲かせていたのでびっくりした。
秋に植える小さな球根で、本当球根ていっても小指の爪くらいのちいさなもので、うっかりすると古い土の中で見逃してしまいそうなやつなんだけど、一年間土の中でそのままにしてあったので、今日掘り起こして、まだ大丈夫かおそるおそる見てみた。
すると、やはり1年そのままで水もまったくあげずに放置していたのにも関わらず、球根の先から小さな芽が出ているものがちらほらある。
なんとも素晴らしい生命力🥺と感激して、
少々放置しすぎたことを反省しつつ、プランターに植えた1日だった。
また冬になったら、小さなかわいい花を咲かせてくれるといいな。
秋口から虫が本当すごくて、虫除けと蚊対策をしてもしても蚊にさされまくっていたので、げんなりして草取り名人をサボっていた最近。
朝晩は涼しくなったけど、色々タスクが増えて大混乱の日々も少々落ち着いた今日
久々にハコニワ整備にあたった日だった。
ほぼ枯れかけてるバーベナををばっさりカットした。
バーベナって一年草だったっけか。根本から小さい葉が出てるので、一応まだ残しておいた。
夏の花の終わりを見届ける10月。
なんて、夏が大幅に食い込んでいる秋だろう。
もうそろそろ秋の花が店頭に並ぶだろうか?
去年よりやっぱり遅い気がするな。
玄関のあさがおも分家からまだ咲いてる10月の朝。
最近草木の肥料に米のとぎ汁をあげてるとの達人情報を得たあと、米を炊くたびに米をといだ汁を保管して、適当に庭の花にあげるようにしてるんだけど、
これがまたすごい楽で、肥料をいちいち水で薄めて作らなくても、米を炊いたらそのたびに外に水をあげるだけで済んでる。
米のとぎ汁を入れておいて庭で水やりをする。
本当最近、肥料のかわりに米のとぎ汁をあげるようになってから
すんごい楽になった。ちゃんと花をつけてるってことは、しっかり栄養になってるってことだ。
(肥料を切らすと花は本当にすぐ咲かなくなる。)
これも今朝。
こないだ小さなプランターに植え替えたバジルさん。
小さなハコニワも、日々進化してるな。
うむ。近々花木センター行こう。
2024-9-20 追記 引っ越しをする、と決めると、ものが増えなくなる。次々に片付けていくことで、現実を動かそうとするも一向にうんともすんとも頑なに動かない2年だった。その土地や日々の営みにコミットするとき、生命は突然輝き始める。この部屋に越してきた頃の秋口もそうだった。
山下は将来を見据えてわたしの元に通っており、実家のいつか越す話も子供を持つ話もほんとうに、まっとうなカップルさながらに私たちはきちんと話すことを繰り返していた。
そんなときの自分には、まるで本当に愛の天使の羽が生えたみたく無限の愛で、生命を生かすことが可能になる。
庭も、花も、家も、食もすべてが輝いていた。
そしてそれがうまくいかなくなった頃、それがお互いの愛情が冷めて道が別れたならばおそらく、わたしは明るく次に進めたのだと思う。
でもそれが、お互いの特性や発達障害が原因になったことで、わたしはとても長く苦しみ、生命の灯火は何度も消えた。
花を植えることは、(さあ、ここで生きていきますよ)と明日に希望をかける行為だ。
明日、水をやり、命を生かすことを義務付けられ、背筋がしゃんとする感覚。
でもそれは、明日にでも引っ越しをしたかった自分にとっては、愛も手もかけることができなくなった。
それはそれは悲しいことだったな。
それでも、すべてが生まれ変わるときに、いちど古い自分を解体してゆかなければいけないことも、その時間が最も暗く冷たく苦しいことも、ようやく今終えて、明日に向かえそうで嬉しい。
見通しのつかない日々は続くけど、必ず夜は明ける。
またいつか、あさがおやオキザリスを庭に植えて愛でる。
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