タオ氏が生まれてから、NZで生活するためにクライストチャーチ行きの航空券を繰り返し買っては怖気付いてキャンセルし、どうしても戻ることができなかった10年前。
生後8ヶ月後の2月のこと。これからの人生の節目のタイミングで知り合いの先生に観てもらい、タオ氏は日本で生きて暮らしたいと言ってること、癒しの仕事に就くのがいいとわかり、最後すべてを受け入れて、航空券の3度目のキャンセルし、その足でセラピストの資格をとりにいき、あっという間に起業した。
駆け足で過ぎた10年の間に、いろいろなことがあった。
それから今日という日、タオ氏が自分の口で、「山梨に行く」と言った。
小学校を調べ、名前があっているか見て、潤の職場から目と鼻の先にある小学校の位置を確認し、潤がもし会わないと言っても、2人でどんな場所か見にいこうねと約束した。
そして、2018年に潤に出会ってから、ずっと側に行こうとしていたのに、絶対に行けなかった理由が今日ようやくまたひとつ、理解できた。
それは、「許可」と「命令」のコマンドだった。
自分が行きたい場所に、住みたい場所に、出かけたい場所に、食べたいものに、やりたいことに、なんでも自由にやればいいと人は思うし、わたしもそう思ってこれまで生きてきた。
でも、わたしにはいつも、許可を出してくれる人が、必要だったんだ。
あの日、もしもタオ君がNZに行きたいと許可を出したらわたしはそのままフライトで永遠に日本から出ることができただろう。
そして、日本での暮らしに命令が降りたときに、わたしの選択肢は無くなった。
でもそれを受け入れて、選択したことに変わりはなく、全うした。
わたしには、自分が決めたことや、自分がやろうとしていることに、ただ許可をもらうことが必要だった。
そしてそれは、潤である必要はどこにもなくて、ただ看護師のゆうさんが、先週
「まいさん、山梨に行くんだよ」と言ってくれたその日に、長年のわたしの苦しみは、ようやくすべて昇華していったんだ。
ここにあるジュースを、飲んでいいか、わからないことがある。
そして、それを聞くと、あーちゃんのように偏見を持たず、親切に教えてくれる人もいる。
でも、山梨に行っていいかどうか、それはわたしにとって、まったく同じコマンドの助けが必要だったけれど、誰もがそれを、大きな責任のある誰にも決められないこととして捉えた。
わたしには、ただ、ずっと潤のそばにいきたいと決めたことに、偏見やジャッジや決め付けなしで、「行っていいよ」と言ってもらう人が、必要だったんだ。
タオ君が、すごく軽くなって「潤君、うまくいきそうだね〜」と何度も何度も嬉しそうに言うようになった。
その反対のコマンドを、長年、潤本人から間違ってインプットされ続けたことで、わたしはパニックになり続けたけど、ただ、自分の望んだ場所に行っていいんだと
今日初めて、タオ君のおかげでそう感じられた。
誰も反対していないことを、自分で決めて行動に移すことは
確かに引越しとか、転職は人生の節目で勇気のいることかもしれないけど
自分には、その大小が存在してない。
見知らぬ国に一文なしで引っ越すことも、近所にできた新しいお店に入ることも、
「それでいいのかな?」
とやりたいときに、ただわからなくて、誰かが「いいよ」と言ってくれたときだけ実行できる。
でもわたしには、見知らぬ国に一文なしで引っ越すことを、いいよと言ってほしくても、いいよと言ってくれる人が、いなかった。
この世界で潤というたったひとりを除いて。
最後のコマンドは、ようやく肩の荷を下ろすように、わたしの苦しみをほどいてく。
安堵で、今まで感じたことのないような安心で、
ずっと誰もいない洞窟でお腹を空かせて何年も助けを待っていた暗闇に
タオ君がきて
「一緒に街へ降りようね」と手を貸してくれるみたいに。
特性を理解してもらうために、タオ君と苦しんだ数年の間に
がんばってきた全ては、潤を理解するための道に繋がってた。
苦しかったし、何度も死のうとしたし、希望の光は失われたように見えたけど
まだ、灯ってる。
たきのおばあちゃんとたおくん。
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