発達障害の生きづらさや
この世界に対応しきれない苦しさを
取って少しでも楽になろうと、コツコツ努力してきた。
手放すもの
エネルギーの使い方
許し続け愛を拡げること
そのどれもが、自分の本当の姿に近づくためのプロセスになってる。
それでも、原点を忘れないようにすること。
生きることや、暮らすことへの愛と敬意を
ただただ大切にしてゆけたら。
それだけの人生なんて、はたからみるとあまりにシンプルで、あまりに質素で
美しく憧れられることもあるかもしれないけれど、真似できない
それが結局は自分の自然な姿で、みんなが楽しそうにしている場所で、
まったく楽しめなかったとしても
それはそれなんだと思う。
ただ苦痛は要らない。
楽しくなくてもいい。
そこに欲はなくていい。
わたしが欲しいのは、安寧だから。
だから苦痛を手放していく。
たくさんのヒントや、今日も温かい愛に包まれた1日だった。
タオ君が助けてくれ、看護師さんが助けてくれ、昼に会社からの理不尽な連絡でパニックになったときも、芸術福祉のひとは懇切丁寧に助けてくれた。弁護士さんにも連絡したら、すぐに返事をくれて、どこまでも守られていることや、こんなにも信頼し続けらるひとが同じ世界に生きているということだけで、感謝で涙がたくさん溢れた。
誰かが必ずそこに、裏切らずにい続けてくれること。
数年前に、身も心もズタズタになるような人間関係で心も身体も病んだときのことをたくさん思い出した。その時も、法律や契約のことですぐに助けてもらったことを思い出した。
わたしが勝ち取りたいのは、契約上の有利や、約束どおりの実務や、金銭的な損失を防ぐことではない。
ただ、人が愛のある選択や道を取れないときに、自分が傷つく立場におかれるときに、
どれだけ強く立ちながらも、戦わずに、相手の弱さや相手の狡さを受け入れられるか。
損をしてもいいとか、お金なんてくれてやると思っているわけではない。
ただわたしは、自分の愛や、大切にしている美しい創造のことを、尊重してもらいたい。
それが叶わず、一言もうしたら、彼らが一時的な感情で強硬手段に出て正当化しようとするときに
自分がどう立ち振るまうかを、見出したいのだと思う。
見送り、手放すこと、別れること。終わる時。
どんな瞬間も、その人が選んだ道はその人にとってのベストであり、それが例え相手を傷つける選択だったり、その人にとって品を落とすような選択だとしても、わたしには関係ない。
わたしにできることは、祈ること。
見守ること。
世界が豊かで愛に満ちた場所になるように、そこに在ること。
そのひとたちも別に、わたしを失い後悔することはきっと無いだろうし、むしろ愛に対して怒りや攻撃をぶつけてくるひとたちにとって、別れは喜ばしいことかもしれない。
それでもいつか、学び、悔い、省みて、自分の未熟さに気づいてほしいと
ただそう思うんだよ。
100年後でもいい。
あの日、まいを大事にすることができなかったと
ただ気づいてもらうだけで、
わたしは浮かばれる気がするから。
あの時、「好意でやってくれてたことが、関係が変わった途端に金銭を求められたが、遡って請求されることはありえるのか?」
そう訊いたわたしに、ただ優しく深い声で、「それは無いね。好意でやってくれていたことは、譲渡と同じで、プレゼントだから。」
そう教えてくれた時の安心感は、わたしが無免許で捕まって裁判所に連れていかれた時も、これまでのどんな瞬間も、永遠に続いてる。
それを訊くだけで、法律上も、倫理上も、愛の上でも
自分が間違っていないことを、すべて包み込んでくれるその人がいるだけで
あとはもう、狡く弱いひとたちにされたことが、蚊に刺されたみたいに思えるんだよ。
愛の力は偉大だ。
そして、本当に人を守るために使う、知識や技術や、法律の資格は、真の愛だと思う。
いつもありがとうだよ。
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