✏️優秀さや才能のあるポニョたち、ギフテッド2Eが、健全な支援をうけられる世界を目指す。
ギフテッドxポニョ=ポニョテッド
歴史上のひと角の人物の中に発達障害が多いというのは有名な話だ。でも果たしてその人たちはどんなふうに成功を収めてきたと言うんだろう?
才能を認められて、身近に助けてくれる人がいたから?
それとも逆境をバネにして、苦しみを乗り越えることとで世界を動かす原動力にしたから?
人一倍意志が強く、特別な使命を持って生まれてきたから?
そのどれもが確かに大切だし事実だし、天才と呼ばれる画家や作曲家などの悲劇な運命は、キャッチーで感動するかもしれないけど、それがどうか早いとこ時代錯誤な観念になってほすいと願うばかりの最近。
発達障害というのは、何か特別だったり人と違うことだったり、才能に恵まれていることを指すのではない。
併せて凸凹が優秀さを産むことはもちろんあるが、問題は「生きる上での障害」となっているところに適切な支援が入らない部分にある。
日本は特に、IQが高いから大丈夫ですよ!とか、それだけ才能があれば大丈夫!
大いに誤解している部分と、優劣の比較が特に強いのが関係していると思う。
例えば素晴らしい才能や有能な知恵を持ち合わせている人がいて、耳が聞こえなかったとして「あなたは優秀だから、さらに手話通訳の助けがいるのは不平等だ。無しで頑張るべきだ。」
と世界が言ったらどうだろう?
音楽の才能や芸術の才能があるひとがいて、足が不自由だったとして、「手を貸してほしい、車椅子を手配してほしいと言ったら「あなたはそれだけ才能があるんだから、大丈夫よ。歩けなくても助けはいらないわ。」
と世界が言ったらどうだろう?
わたしのような、色々得意なこともあって、同時にポニョの人間はそれと同じことを日々言われる。
才能があるから障害を軽視されるのだとすれば、それは人権を踏みにじる虐待と同じことである。
でも現実いまの世界では、それが当たり前に起こって、なんなら逆境を乗り越えたと美化される。
発達障害は、目に見えない分、本当に生きるための活動に困っても、「人としてダメ」とか依存してるとか、誤解を受けがちだ。
それだけならまだしも、優秀だったり才能に溢れていると、上に書いたみたいに
「さらに支援がいるのは欲張りじゃない?」
と思い込むひとはとても多い。
天才画家は、自堕落で廃人のような生活を送っていても、それは文化だろうか。
絶対にそれはあり得ない。大昔の話であってほしい。
村上春樹氏が、小説家の夜ふかしやタバコ、不健康なイメージじゃなくて、早起きして野菜食べてマラソンする健やかな小説家があってもいいじゃない。
と言ったように、発達障害の天才が適切な支援を受けて、人として健康な生活を送ることのほうが、この先の世界の未来に遙かなる希望と価値を与えると思う。
苦しみや逆境やネガティヴな環境が生み出す、奇跡のような美しいものは確かに存在するけれど、愛や感謝や支え合える世界が生み出す美しいものも必ずある。
この先の世界は、かならずそっちに向かってくと信じてる。
才能と障害はまったくもってセットじゃない。それは人が勝手にこじつけた、後から話をエンターテインするための、責任転嫁と嫉妬を歪めるためのストーリーのようなものだ。
素晴らしい才能にはもちろん充分認められた上で後押しやサポートが入ればいい。
でも才能があってもなくても、生きる上で全てのひとが、健康で文化的な最低限どの生活を営む権利がある。
才能があろうがなかろうが、IQが高かろうが低かろうが、ひとの生命の価値はどこまでも、とことん、皆等しい尊さがある。
どんなシチュエーションであろうとも、それは優劣無しに支えられるだけの権利が絶対にある。
そして、社会(わたしたちひとりひとりの全員。)はそれを支えて守る義務があるんだよ。
誰もが困らない世界はわたしたちの手で創れる。
そっちに向かうよ。
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