福祉や看護の人、結構な数会ってきたけど
そのひとが、仕事としてただやってるのか、それとも今の苦しみや困りごとを本当の意味で助けようとしてくれてるのか、全然違う。
多分、仕事としてただやれる支援や介護もこの世界にあるんだと思う。
でも、パニックの苦しみが、命にかかわる痛みだってことも
それを障害だもんねと軽視する無知か、それとも、「解決しよう」と真摯に向き合ってくれる聡明さか
同じ職業でも、わたしが地獄か天国にいくかの道は真っ二つに別れてる。
最初にお願いしていた看護ステーションは、そういう意味での誠実な人は少なかった。
ものすごい爪が長くて不潔だったり、苦しんでもがいている時に、「なんか引き籠っちゃってるんですよね〜」と私の目の前で電話する酷い人もいた。
このひと何しにきたんだろうとひたすら耐える時間だった。
りゅうじやあきちゃんがいてくれた頃に、お願いしていた看護ステーションの人たちは、素晴らしかったけど、でも最後は結局自分たちが助けても、家族や福祉の支援が得られず無意味になってしまう。代わりに伝えてもらっても理解はしてもらえない。
そんな結末で周りに誰一人居なくなり終わりを迎えた、辛い時間だった。
苦しい時にSOSを出しながら目の前で助けをもらえない時が最も苦しいので、
最近全ての期待も捨てて、どうせ助けられまいと一生懸命手放す努力をしながら、
そしてお願いしてる看護師さんたちは、自分の期待を逆に裏切るように
ひとつひとつの小さなことをないがしろにせず、向き合ってくれる。
大丈夫?の言葉は意味がわからなくて苦しいこと
ゆっくりでいいよ、は更に苦しくなること
窒息するような苦しさから、一刻も早く助ける必要があって、それはとてもシンプルなことで誰でも助けられるから、待つのではなく限られた時間で助けてほしいということ
絞り出すように、伝えたときの、こっちをしっかりとみて
「ごめん、それは僕が悪かった。」
「次からそうする」
そうやって、軌道修正をしてゆく作業療法士OTの先生の言葉からは、判断が適切である安心感をわたしにくれた。
どれだけ説明しても絶対に届かない人がいる。
必死で拙いことばを吐き出して、拾おうとしてくれる人がいる。
それはきっと職業も関係性も関係なくて。
看護師の所長さんに電話したときに、
おばさんに助けてもらいたいけど、傷つけたり壊したりめちゃくちゃになったあとに、
「そんなことしちゃだめだよ」と何度か子どもを擁護する立場で言われて(これが最も多い)
だからジャッジされるのが逆に苦しく助けを求められないと伝えると、
「わかった。今回はひとりで片付けよう。」
そう即座に答えてくれたとき、否定されながら誰かに助けてもらうよりも、100倍勇気をもらった気持ちになった。
パニックの苦しみは、味わったことがなければ想像がつかないと思う。
縄で首を絞められて、トラックに引きずられるような苦しみ。
ヒステリックに逃れようとしても、それでも相手はわたしが暴れて世界を傷つけるとそう思い込み、助ける代わりに隔離する。
家族には何も期待できない。
誰にも助けてもらえない。
それでも、たった短い時間の看護師さんとの会話や、1つ1つ見逃さないように見てくれる作業療法士さんの誠実さを、無限に広がる砂漠の中で見つけた水脈の、一滴の雫のように
それを思い出すだけで、わたしは今日も生きていられる。
この感謝を、どれほどをもっても相手に返すことはできない。
一瞬一瞬が大事で、それ以外の時間をどれだけ自分が幸せに過ごせるかが、恩返しだ。
二人がいてくれることで、またきっとわたしにも、
そうやって寄り添ってくれる友人や家族ができるかもしれないと
光を感じさせてくれるんだよ。
またそのうちそれだけは伝えられたらいいな。
普段、誰かが名刺をくれるのが嫌いで、捨てたいけど捨てることもできないから
棚の奥にしまう。
二人の名刺を引っ張り出してきて、一番見えるところに貼った。
今の自分の、命綱でありお守りだから。
にわにきたかえる。
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