翻訳家の友達と話してて、
日本滞在後、外国人が最後に鬱になって海外へ戻るときにみんな、辛かったことは、
「最後まで自分たちを差別する」と言うんだって。
日本人は、差別のことを、「虐げる」「下にみる」ことだと誤解してる。
実は、「いやあなたはアメリカ人なんだから!」とむやみやたらと卑屈な態度を取り続けることこそ、差別なんだということに
1人、またひとりと気づいていくといいよね。と思う次第。
障害もそう。
下にみることを差別というんじゃない。
「あなたは特別だから!すごいから!」と敬ってるつもりで違う土俵にいれること。
それも差別なんだってこと。
みんな違って、みんな同じ。
今日、【吃音の先生が卒業式で吃りながらも一生懸命生徒の名前を呼んでるのを見て、勇気があると感動した。】
っていう投稿を見かけた。
投稿の最後に、子どもたちは「え?普通だよ?いつも先生が話すのをみんなじっくり聞いてるよ」
というのが書いてあって。
【吃音なのに人前で話すなんてすごい】って
なんか褒めてるようにみえて、実はふつうに差別なんだよね。と思った。
むしろ、子どもたちがそれを普通に受け入れてることこそが、あるべき姿であって
それを見て、「感動した自分が恥ずかしかった」っていうところにたどり着けたら、それは自分たちが知らないうちに差別をしてるんだ。
褒めてるつもりがそれは実は差別なんだ、ってことに気づいたということになる。
耳の聞こえない議員、障害があるのにすごい。
足が無いのにスポーツするなんてすごい。
それは確かにすごいことで、自分も確かに障害がある身としては、普通の何倍も努力をしなければいけないし、たくさんの偏見の中でチャレンジや勇気が必要であることには違いないんだけど。
吃音なのに生徒の名前呼んでて感動した、というのはちょっと微妙に悲しかった。
耳が聞こえなくとも、この世界をより良くしたい意志がある一人の人間であることに何も変わらなくて、障害とかハンデがあろうがなかろうが、そこに必要な支援や工夫を通して、同じ土俵で活動すること。
身体に不自由があっても、やりたいスポーツがやれる環境があること。
むしろそれが当たり前の世界になっていってほしい。
いつか昔、女性の議員は一人もいなかったとか、女性の大統領はひとりもいなかった、からの
それが当たり前になっていく世界。
差別や偏見のない世界。
吃音?人前で話すなんてふつうだよね。可愛よね。っていうくらいにさ。
特に日本は、長い歴史の間で【みんな同じ】右へならえをいつも夢見てた。
人と違うことをジロジロ嫌なふうに見つめたり、怖がったり、いじめたりする長い歴史の中で
いきなり、変わった特性を持つ人が人前で堂々としてゆけるには、まだ少し時間がかかるかもしれない。
でも、クラスの子どもたちが
「え?普通だよね?いつも先生が話すのをみんなじっくり聞いてるよね。何が感動するの?」
そのことに、感動しようよ。
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